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2018年9月24日 (月)

今市事件控訴審判決の論理破綻

今市事件控訴審判決を読んで驚いた。

1審判決は、客観的証拠だけでは犯人かどうかわからないとして、自白供述を拠りどころに有罪認定した。ところが2審判決は、客観的証拠で犯人性をかなり推定できるとした。その決め手となるのが、Nシステムと母への手紙という。

しかし、Nシステムの信頼性がどこまで科学的に証明されたのか。遺体破棄現場からかなり離れたところを車で通過したとして、それで犯人だと推定できるのか。8年前なぜその時そこを通過したのか、思い出せるのか。

母への手紙は、客観的証拠というよりも、自白供述といっていい。2審判決は、文面に迫力があるから信用できるというが、いくらでも誘導・指導により迫力ある手紙は書ける。本件殺人の自白であっても、「反復自白」(任意性を欠く自白に引き続いて、再度取調べられた結果なされた自白も、同様に排除されるべきである)に過ぎない。決め手にはならない。

 これだけで有罪とするのは無理だから、結局、自白供述に頼るしかなくなる。そこで1審判決有罪の決め手となったのが取調べの録画であった。2審判決は、取調べの録画を実質的証拠とすることの危険性を指摘し、排斥した。それを理由に1審判決を破棄した。そうなれば、自白調書の任意性、信用性が疑われ、客観的証拠だけでは犯人性を確定できないのだから、無罪とならなければならない。

 審判決は、殺害場所や殺害態様に関する自白の信用性を否定した。ところが被告人が犯人であることの自白の任意性、信用性は認めた。具体的な犯行状況の自白の信用性は認めないで、ただ殺しましたという抽象的な自白は信用できるとする。

逆ではないか。本件のように、取調べで、「証拠はそろっているから自白しなくてもいい。否認して死刑になるよりは自白して20年で出てこられる方がいいと思うが。」と言われれば、ウソでも自白したくなるであろう。具体的な犯行状況の根幹にかかわる自白が信用できないなら、ただ「殺しました」という抽象的な自白はなおさら信用できないのではないか。

 しかも審判決は、取調べ前半の自白の信用性を否定しながら、50日間何も取調べなかったからその後の自白は信用性があるという。驚くべき立論である。警察が24時間被疑者・被告人を手元に置いて全生活を支配する代用監獄の実態が全くわかっていない。50日間代用監獄に入れられたままでは、その前の状況が続いているとみる方が自然である。

なお、「(検察の)取調室の窓から脱出しようとして戒護の警察官らに引きとどめられた…(なお、当日、さらに警察官による取調べは行われている。)。」との指摘に注目したい。検察取調べになぜ警察官が立ち会っているのか。それでは警察での取調べによる威嚇が検察取調べにも影響することになる。絶対に避けるべきである。判決がこの事実を認定しながら、その後の自白の信用性を認めたことも納得できない。

 ただ、取調べの録画を実質的証拠とすることの危険性を論じたところは説得力がある。さすが、2年前に東京高裁裁判長としてこの問題の危険性を鋭く指摘する画期的な判決を出しただけのことはある。取調べの録画を実質証拠とすることを勧めた最高検依命通知に真っ向から敵対し、裁判所の見識を示したものとして高く評価される(牧野茂・小池編『取調べのビデオ録画―その撮り方と証拠化』成文堂2018年、拙稿「可視化は弁護をどう変えるか」『可視化・盗聴・司法取引を問う』日本評論社2017年)。今回の判決はそれをさらに補充するものであった。

取調べの録画を実質的証拠とすることは、「印象に基づく直感的な判断となる可能性が否定できず、…熟慮を行うことをむしろ阻害する影響がある」「自己の刑責を実際よりも軽いものにするためにした虚偽供述であるとの疑いを否定することができず」「自発的であっても、虚偽供述の可能性があることが、見落とされる危険性がある。」と2審判決は指摘する。

そこまでいうなら、なぜ本件の場合も、「否認して死刑になるよりは自白して20年で出てこられる方がいい。」と言われた被告人の心境に思いを致さなかったのか。2年前に審判決は、取調べの録画を証拠とすることの危険性をこれほど指摘しながら、結局は事実上録画で心証をとったのではないか、と皮肉もいいたくなる。具体的な犯行状況の自白の信用性を否定しながら、殺しましたという抽象的な自白は信用する逆さまの論理もそこから出てきたのではないか。

このような論理的に破綻している判決をなぜ出したのか。取調べの録画を証拠とすることの危険性をストレートに指摘したこととのバランスをとって、有罪判決としたのではないかと勘繰りたくもなるであろう。

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