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2011年1月

2011年1月30日 (日)

想定を超えた強制起訴

検察審査会による起訴強制は、検察が起訴すべき事件を政治的思惑などから恣意的に起訴しなかった場合を想定して、市民が起訴強制するというのが本来の制度の趣旨である。要するに、検察のネグレクトを市民がチェックするのが目的である。

ところが、小沢事件は、そもそも検察が起訴したくてしたくて必死になって政治介入した捜査であったにもかかわらず起訴できなかったケースである。収支報告書記載問題というほとんど形式犯で現職の国会議員(事件当時の秘書)を逮捕するという異常なまでの執念を燃やして小沢(元代表)の共犯関係を追及したにもかかわらず、小沢を起訴できなかったのである。これを検察審査会が強制起訴するというのは、制度の本来の想定を超えているといわざるを得ない。

確かに、犯罪事実の認定において、プロの判断と市民の判断が異なってもいいので、政治資金規正法違反が形式的には成り立つとしても、その上で、起訴すべきか否かの判断に至るにはもう一つの壁を越える必要がある。一応、犯罪事実は認定できるが、起訴するのが妥当かどうかという判断である。

同じ頃、自民党の二階議員は、本件と全く同じような政治資金規正法違反がありながら、不起訴になった。その他、この種の法違反は、他の国会議員にもいろいろあったと思われるが、立件されていない。なぜ、小沢氏だけ立件、起訴されなければならないのか。宅配ピザのチラシは不問に付されるけれど、イラク戦争反対などの政治的なビラ配布は住居侵入罪などで逮捕、起訴、有罪判決となる理不尽と同じような義憤を感じる。

本件強制起訴が前例となれば、大問題である。検察審査会が犯罪事実を認定したことは是とされても、だからといってあえて起訴相当と議決するのに、二階議員の例などをどこまで検討したのか、そこで審査補助員の弁護士がどのような助言をしたのか、不明である。

従って、本件のような想定を超えた強制起訴の場合、その刑事被告人の地位を、通常の被告人と同列に論じるのはおかしい。国会喚問に応じる必要もないし、議員活動を停止する必要もない。離党する必要もない。通常の政治活動を継続すべきである。

にもかかわらず、他の起訴と同一視して、「政治と金」と大騒ぎするマスコミと国会議員たちは、愚かしくも嘆かわしいというしかない。この問題は政局に利用されているだけであって、このためこの1~2年間国会が空転してしまったことの方がはるかに大きな問題である。

マスコミはどうしてこれほどまでに政局に加担するのか。どうして、民主党代表選で小沢氏をこきおろし、菅氏を持ち上げたのか、異常としか思えなかった。もっと先を見た論評ができないのか。

「どうして日本人は…あまりにナイーブであり、マスメディアにたやすく動かされてしまうのか…問題をすり替えられたら、それで終わり、それはいまだに変化していない…いまだに大衆は…とくにメディアに左右されているのです。わが国のメディアは極端と言っていいくらい権力に弱く、世論を指導する見識などありませんから。」(辻井喬「私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家」新日本出版社)。新聞の経済的危機はわかるが、このところのマスメディアの一色ぶりは異常である。

また、どうして民主党はこれほどまでにマスコミに弱いのか。それは都市型政党の弱点である。自民党はどうしてこれほどまで国会議員の言葉狩りをするのか。それは自ら、言論の自由に対する無理解を示しているだけでなく、自らのレベルの低さを物語っていることに気づいていない。

この間の小沢問題は、日本の議会政治を大きく後退させた。

野党の人たちは、「政治と金」と言って小沢を批判していればそれでいいのか。形式犯的な収支報告書記載問題を追及するよりも、企業献金禁止のマニュフェスはどこに行ったのか、政党助成金はこのままでいいのか、という論点を追及する方がはるかに建設的だと思うが。マスコミも、国会も、かなりおかしい。

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