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2010年9月26日 (日)

指揮権発動すべきだった

尖閣諸島沖の事件で逮捕勾留した中国船船長を沖縄地検は釈放した。

検察の判断だとされているが、検察が外交問題まで考慮するというのは、検察の領域を超えている。それは政治(外交)判断である。

実際は、官邸と最高検との協議がなされたものと思われる。事実上の指揮権発動である。関係当局は、表向きそれを否定しているが。

むしろ、内閣が堂々と政治判断して、法務大臣が検事総長に対して指揮権発動すべきであった。指揮権発動とは、このような場合にこそ必要であるから、法制度として存在しているのである。

別に、法務大臣が指揮権発動したからといって、必ず法務大臣がその責任をとって辞めなければならないものではない。今回の場合は、むしろ支持されたであろう。釈放という政治判断が正しかったかどうかは別として。釈放の妥当性については、第一義的には、首相、外務大臣の政治判断が問われるのであって、法務大臣はその内閣の一員としての行動(内閣一体の原則)であるからである。

そうしなかったのは、官邸筋が正面きってその責任をとることから逃げたかったからであろうう。堂々と受けて立って、責任をとる度量と見識がなく、検察に汚れ役を演じてもらったというわけである。そこで検察は、「総合的判断」という曖昧な「裁量権」を行使する形をとらざるを得なかった。まさに、日本的な、あいまいな責任の希薄化、押しつけあいである。

しかしこれでは、検察が政治判断して捜査方針を決めるというやり方がまかり通ることになり、中立・公正を旨とする検察の在り方の根本が揺らぐ。それこそ「国策捜査」の謗りを免れない。

その背景としては、「司法の独立」についての日本の不幸な歴史がある。大津事件である。それ以来、日本人は「司法の独立」にあまりにもナーバスになり、表向きは、金科玉条のごとくとらえてこなかったか。それがために、日本では、「司法の独立」という名の下に、裁判所、検察庁を国民主権の観点からチェックすることがためらわれたのではないか。

司法は、三権分立の一翼であり、三権分立とは、チェックアンドバランスの理念である。司法を国民主権の観点からチェックするシステムは必要である。そのひとつが、法務大臣の指揮権である。

過去、一度だけ行使された指揮権発動が、実は、検察の捜査が行き詰まったために検察側から内々に要請されたものであったという不幸な歴史が重なる。検察をチェックするために錆びついた指揮権発動の見直しを提案する郷原信郎氏の「検察の正義」(ちくま新書)を紹介したのは、本年2月13日付本ブログであった。

厚労省事件で事情聴取された石井一議員(当時、民主党副代表)は、主任検事から、「検事のほとんどは自民党支持者である、政権が長かったために一体感ができている」と言われたという。そういえば、東の小沢、西の石井、と民主党幹部が捜査対象になった。小沢と同様の政治資金規正法違反で自民党議員は事実上不問に付されたが。指揮権という「抜けない宝刀」が錆びついているために、検察を暴走させているといわれている。

この機会に、法務大臣の指揮権発動について、その制度の趣旨に立ち返って、根本から国民的議論を始めるべきであろう。

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