『同志少女よ、敵を撃て』
ロシアのウクライナ侵略は、戦後世代の私たちにとっては、戦争というものをリアルに身近に感じさせることとなった。
確かに、戦後間もない生まれの私にとって、祖父母、両親、親戚から戦争の話は聞かされていたし、実際に、伯父に当たる人が何人も亡くなっている。父親を亡くしたいとこが複数いる。また、幼いころ、足を無くした傷痍軍人が路上で物乞いしている姿もよく見かけた。今でも鮮明に覚えている。しかしこれらは、およそ戦争被害の体験であった。
ベトナム戦争は日本の基地から米軍が飛び立っていたが、日本にとっての切迫感はあまりなく、湾岸戦争、アフガン戦争も身近な戦争ではなかった。
ところが、今回のウクライナ戦争は、身近な戦争という感がある。戦後であったはずの今日、現在進行形で戦争が進められている現実を実感させる。あのソフィアローレンの映画『ひまわり』の舞台となった広大なお花畑があるウクライナで今まさに戦争が行われている。同時進行的に報じられるメディアの影響大である。
戦争とは何なのか。おびただしい血を流している人々を思うと、何とかならないのかと悔しさを覚える。
そこで、日本以上に多くの死者を出したソ連の防衛戦争に思いが至る。独ソ戦の実態はどうだったのか。
今年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は、ソ連軍の女性狙撃兵(スナイパー)を主人公とした異色の戦争小説だ。五百頁近い長編であるが、一気に読ませる。ウクライナも舞台となっており、ウクライナ戦争の前に出版されているが、まるでウクライナ戦争を予感したように、現在のウクライナ戦争とオーバーラップされる。
スターリングラードとウクライナがこんなに近いとは知らなかった。郊外の戦争も市街戦も陣地戦であり、ひとつ一つ陣地を取っていくのが戦争なのだ。軍隊には様々な任務分担があり、歩兵と狙撃兵はまるで違う。等々、戦争の実態をリアルに壮大に展開する。ソ連兵もドイツ兵も軍人としてはその本性は同じ。が、祖国防衛という社会主義国を標榜する大義名分により異なるところもある。読み進むと、敵か味方か、その線引きも空しくなる。
権力が軍隊を組織し、戦争を進める。戦争を大局的にも、現地戦として具体的にも、トータルに実感させ、かつ戦争の理不尽さを思い知らされる傑作である。
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