2021年9月10日 (金)

戦争遂行者の無責任体制

 

保阪正康『陰謀の日本近現代史』(朝日新書2021年)を読んだ。そのカバーには、「戦争と大事件の『闇』を照らす」として、「『歴史を変えた』のは誰なのか 私はいま光を当てたい」との著者の言葉が記されている。

支配体制の組織性、責任体制がいかに脆弱であったか、日米開戦から、いやそれ以前から、敗戦に至るまで、日本の支配層は一貫してそうであったし、それを支える忖度と自己本位の世界であったようだ。

そんな権力体制の下で、戦争の前面に立たされ、殺し、殺されていった人々の無念、大空襲、原爆の悲惨さを思うと、どうしようもない情けなさと無力感に囚われてしまう。

いまの日本のコロナ対策を連想する人は少なからずいるだろう。

「自宅療養」と称して自宅放置される無念さはいかばかりであろう。

このような日本を変えるには、一人一人独立した合理的な人間に育てる教育しかない。

目の前の一つ一つに真摯に向き合い、その輪を拡げていくしかない。

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2020年12月15日 (火)

国家機関と独立性

首相が、学術会議推薦候補者6名の任命を拒否した。任命権が首相にあるから拒否できるという。その根底に、国家の機関は国の税金で賄われるから国民の負託を受けた内閣がその運用に責任をもつべきであるという考え方がある。

この論を進めれば、国立大学の先生は国税から給料が出ているから、内閣が人事などに介入する責任があるということになる。これでは大学の自治などないに等しい。

要するに、国がお金を出すところには独立性がないのか、という問題である。

金は出しても口は出さない、というのが学問の自由であり、近代民主主義の進化の歴史であったはずだ。

国連が推進する国内人権機関(国家人権委員会)は、国際人権を各国内に実現するために、各国に国の機関として作られる人権委員会である。公的機関であるが政府からの独立性がなければならない(パリ原則)ものとして、1993年国連総会で決議され、現在123ヵ国で設置されている。2002年には韓国国家人権委員会が設置され、ときの政府に対しても遠慮なくその立法や施策を批判している。しかしその費用はすべて国が負担しているのだ。

各種第三者機関の設置が時代の要請とされているが、金は出すけれど口は出さないというのが第三者機関の要諦である。国家人権委員会はその最たる第三者機関である。

私が編著に関わった、近刊『国際水準の人権保障システムを日本に 個人通報制度と国内人権機関の実現を目指して』(日弁連第62回人権大会シンポ第2分科会実行委員会編・明石書店)は、国家人権委員会について、最新の情報を含め、これ1冊を読めば全体像がよくわかる構成になっている。監視社会に対抗する国内人権機関の役割や、日弁連人権大会シンポで私が司会を務めたパネルディスカッションの模様など満載している。

国連条約機関が日本政府に対して、政府から独立した国家人権委員会を設置するようにと度々勧告しているが、これに対して日本政府は、前向きに取組むことを表明している。

ぜひ多くの人にこの本を読んでいただき、日本で早期に国家人権委員会設置を実現したい。

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2020年10月19日 (月)

「自立・自助の原則」

菅首相就任での「自助、共助、公助」というあいさつが注目されている。

そこで思い出すのは、1995年阪神淡路大震災のときの村山首相が「自立・自助の原則」を強調し、個人への国家補償を否定したこと。天災には国は責任を負わないという姿勢だった。

当時、私はテレビのワイドショーで、「資本主義国の最たる国アメリカでもロス地震では最高200万円援助されている。村山首相がいう『自立・自助の原則』はおかしい」と批判した。

1997年ドイツの大洪水では政府が最高200万円支給」「そもそも自然災害から守るために治水し、被災者には食糧補給することは、資本主義社会以前から、昔から、その国の為政者が当然の治政としてやってきたこと…政治は国民を助けることにあるということが、欧米デモクラシー国家で自明の原理である」(拙著『ワイドショーに弁護士が出演する理由』平凡社新書2001年)。

あれから四半世紀、東日本大震災を経て、九州の大洪水など、いまは新型コロナで国もわずかではあるが10万円の個人補償をした。個人への国家補償に誰も文句を言わなくなった。隔世の感がする。

だが、休業補償ははっきりしない。アメリカやドイツの新型コロナ対応と比べてあまりにもレベルが低い。

ときの総理大臣は、「自立・自助の原則」を強調しなくはなったが、「自助、共助、公助」と相変わらず、「自助」を前面に出している。

徐々に進んではいるが、欧米諸国とのデモクラシーの差を感じないわけにはいかない。

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2020年5月17日 (日)

内閣が検察の暴走を止める?

検察庁法改正案に反対する理由は、行政権が司法権に介入する点である。

ところが、検察の暴走を止めるのは内閣だとして、法案に賛成する議論がある。

そうだろうか?

法案は、内閣が検察幹部の任期を延長する制度である。法案が成立すれば、暴走する検察トップの任期を延長するのであるから、検察の暴走を助長するだけである。法案賛成の理由にならない。暴走する検察を止めるのは裁判所であり弁護士である。

権力はできるだけ分散させるべきというのが近代民主主義の考え方である。

公取委、中労委などの独立行政委員会がそうだ。韓国の憲法裁判所は三権とは異なる第4の権力とされる。ニュージーランドには、警察を監視する別の「独立警察機関」がある。

ところが、安倍内閣は内閣人事局で官僚の人事を掌握し官僚組織を滅茶苦茶にし、慣例を無視して、内閣法制局のトップを恣意的に入れ替え、NHKや最高裁裁判官人事に介入し、ついには、検察の人事に介入しようとしている。

このような、内閣に一元化する動きは、時代に逆行するファシズムである。
弁護士・検事たち法律専門家が司法の独立を侵すとしてこぞって法案に反対しているのに、無視する内閣は、日本国憲法の三権分立の理念を全く理解していないといえよう。

専門家と市民の協働の意見に真摯に耳を傾けるべきだ。

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2020年3月 9日 (月)

新型コロナ新法と検察庁法改正の関係性

閣僚が50万円ポケットに入れたり、伊藤詩織さんへの準強姦容疑事件、モリカケ問題での公文書破棄等々、検察庁がなぜ立件して起訴しないのか、不思議だった。

最たるものは、花見問題。検察がその気になれば立件でき、ホテルから簡単に明細書を入手することもでき、真相解明へと動くはずなのに、一向に動かない。

なぜ検察がこれほど動かないのか。内閣官房の中に検察を抑えている者がいたからではないかと言われる。

検察官定年延長問題がそれにかかわる。検事総長が変わればこれらの真相が一挙に解明されることを恐れて、そういう事態を避けるためには、内閣官房にいた黒川氏が検事総長になってもらわなければ絶対に困るという事情があるといわれる。

何が何でも黒川氏を検事総長にするために、従来の解釈を「変更」してまで、黒川検事の定年を延長した。その後付けの説明がくるくる変わるのは無理もない。

民主主義国家の基本である三権分立にかかわる大問題であるだけに、メディアでも大騒ぎになるはずだが、新型コロナのためにトップニュースにならない。安倍内閣にとってはコロナ様様といった状況である。

安倍首相が最初の3分とか8分でコロナ対策会議を離席したという報道に接すれば、本気で新型コロナ対策をするのではなく、新型コロナ騒ぎになった方が花見や検察定年延長問題が隠れていいと思っていたのではないかとさえ見える。

それでも野党議員やメディアは頑張り、検察官定年延長解釈変更の違法性が明確にされると、今度は検察庁法を改正して、定年を変え、しかも、遡って適用されるようにとしている。解釈がダメなら法律で変えればいいというのであろう。

確かに、こんな違法な解釈で検事総長になってまともな仕事ができるわけがないから、法改正して後付けでも合法性を装いたくなる気持はわかる。しかし、遡及効が法制度上通用するわけがなく、こんな立法で無理押しして検事総長になっても、まともな仕事ができないことは同じであろう。そこまでされてなった検事総長に誰がついて行くのか。検事総長決済の仕事には違法という裁判が続出する恐れもある。

いま、新型コロナ新法を作ってこれにも遡及効を入れようとしているのは、検察庁法改正のための馴らし運転としか見えない。新型コロナ新法を作る理由も、遡及効とする理由もないからである。

国民のためではなく、私的に、権力維持のために、政治を、行政を破壊している安倍内閣であるから、新型コロナ対策が後手後手に回る。それが批判されると、思い付きで免罪符的に、全国一斉休校とか、韓中入国拒否というパフォーマンスを断行する。現場がどれほど混乱するか想像しなかたっただろうか。病院では看護師が休み、困難に直面している。

感染者数が毎日報じられているが、検査していないのにどれほど意味があるのか。東京が北海道よりも少ないということはあり得ない。東京オリンピックを開催したいためにあえて検査しないのか、と疑いたくさえなる。

というように、政治不信は頂点に達しつつある。国民に資料を公開し、国民と共に、国民のための政治をする、そういう政治に転換しないと、本当に日本は滅びてしまうのではないかとさえ危惧してしまう。

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2020年1月 9日 (木)

ゴーン逃亡と犯罪人引渡条約

昨夜のゴーン記者会見は予想通りの内容であったが、そこでの日本の刑事司法制度批判は的を射ていた。日本政府が国連から何度も勧告を受け、”日本の刑事司法は中世“とも皮肉られていた問題であり、日弁連も長年批判し続け、私のブログにも度々登場している。

ゴーン被告はもう日本には戻ってこないであろう。

日本はレバノンとの間で犯罪人引渡条約を締結していないために、ゴーンを日本に連れ戻すことができない。レバノン政府に引渡義務がなく、レバノン政府が自ら引渡すことはできるが、それはレバノン政府の意向次第である。しかし、レバノン政府が引渡すことはあり得ないであろう。

日本が犯罪人引渡条約を締結している国は米国と韓国の2カ国しかない。

イギリス、フランスは、約100ヵ国と犯罪人引渡条約を締結しているが、なぜ、日本との間で締結されていないのか。

日本に死刑制度が未だにあるからである。

死刑が廃止されている国から死刑になるかもしれない犯罪人を引渡すことはできないというのが理由である。

ちなみに、フィリピンも死刑廃止国であり、数年前、日本から凶悪犯人とされる共犯者たち数名がフィリピンに逃亡してしまった例がある。

死刑制度が凶悪犯人を逃している現実がある。

また、今市事件では、「自白しなければ死刑になるぞ」と脅され、ウソの自白を強要された。死刑制度がえん罪を作っている例である。

いずれにしろ、この機会に、死刑を含む日本の刑事司法制度について、真剣に検討されることを望む。

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2019年11月27日 (水)

『軍馬と楕円球』

中野慶『軍馬と楕円球』(かもがわ出版)が今年7月発刊された。

 

日本が燃えたワールドカップラグビー開催に合わせて刊行されたのであろうか。まさにタイムリーそのものである。

 

私もこのワールドカップでラグビーのルールを多少知ったが、それが本書の「楕円球」理解に役立った。

 

でも、ラグビーは背景というか、著者の青春の思い出という味付けであろう。

 

主題は、1930年代日本の戦争責任を問うものである。対話形式で、いろいろな角度から論点を出している。その方式が、日本国憲法論にも展開されている。

 

「軍馬」はその戦争論を下支えする道具として、馬の視点から考えたこともない一般読者からみれば、きわめて興味深い。

 

支配層の戦争責任、国民の戦争責任、…答えが出ているわけではない。

 

多角的なものの見方を提供している。

 

相手の論理を知ることによって、自分の見方も深まる。

 

その相互作用によって、先に進む。

 

このキャッチボールが、楕円球=ラグビーである。

 

著者の深い思考が垣間見える。

 

 

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2019年10月29日 (火)

取調べの録音の証拠化

2016年刑訴法が改悪された。その衆参両院法務委員会での審議に私は法案反対の立場から参考人として出席した。20164月の参議院法務委員会では、1審判決が出たばかりの今市事件を例に挙げて、取調べのビデオ録画を刑事法廷の証拠とすることがきわめて危険であることを強調した。成文堂『取調べのビデオ録画~その撮り方と証拠化』(小池ら編著)などでも度々警告した。

 

周防正行監督は、「映像には情報が膨大に詰まっているので、人は映像の中に見たいものしか見ない」と指摘し、取調べ映像を判断に用いるのは無理であるという(拙稿「可視化は弁護をどう変えるか」『可視化・盗聴・司法取引を問う』日本評論社2017年)。裁判の公判中心主義に反し、裁判所の自殺行為である。フランス、イタリア、台湾、韓国の裁判所では、ビデオ録画が公訴事実を直接証明するための実質証拠としては用いられていない。

 

法案成立後、さすが裁判所は、ビデオ録画の証拠化に消極的な姿勢を示した。最近は、録画は排除し、録音のみを証拠採用する例が出た。録画と録音は大きく異なるから、まずはこの姿勢を評価したい。

 

しかし、一部録画だけでなく一部録音にも共通の危険性があることは否定できない。録音を証拠化するなら、全部録音し、それを弁護人に開示すべきであろう。そうしなければ、いいとこ取りの誹りを免れない。

 

 

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2019年6月22日 (土)

ユゴー『死刑囚最後の日』

 

『レ・ミゼラブル』(1862年)のヴィクトル・ユゴーが、27歳になる直前の1829年に出版したのが『死刑囚最後の日』。日本では3度目の翻訳版が昨年暮に光文社古典新訳文庫になった。

初版は匿名で出版された。世間の反応が読めず、怖かったのであろう。案の定、賛否両論が渦巻いたようだ。その反応を踏まえて、ユゴーは、第3版(1832年)は実名で、対話形式の長いまえがきと長い序文を書き、堂々と死刑廃止論をストレートに展開した。本書にはその翻訳まで掲載されているから、興味深い。

1789年フランス革命からわずか40年後に出版されたのであるが、第3版まえがきと序文には、今日の死刑制度についての賛否両論がほとんど出尽くされていることに驚いた。200年前に議論されていることが未だにそのまま議論されているのだ。

ちなみに、18482月革命により第2共和政が成立し、政治犯の死刑が廃止された。ユゴーは議員となり、憲法制定議会で死刑廃止を訴える演説を行った。

200年経っても同じ議論をしているとは、200年経っても世の中変わらないのか。あるいは、200年というのはつい最近のことなのか。

もっとも、ヨーロッパでは前世紀末までに死刑が廃止され、米国でも、つい先月ニューハンプシャー州で死刑が廃止され、死刑廃止21州・停止4州となり、米国の州の半分の25州が死刑廃止・停止州となった。

しかるに日本では、相変わらず200年前と同じ議論がなされている。ところで、昨年のオウム死刑囚13名全員の処刑は世界を驚かせ、日本の死刑制度に対する内外の関心が高まっている。昨年死刑全面廃止を打ち出したローマ教皇が、今年11月来日する。日弁連は、東京オリンピック・パラリンピックが開かれる来年までに死刑廃止の目途をつけることを宣言し、運動を展開している。この機会に、本書が多くの日本人に読まれることを期待したい。

 

 

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2019年1月13日 (日)

なぜ日本は“中世”と言われるか~ゴーン事件で比較され

ゴーン事件で、日本の長期勾留や取調べに弁護人の立会いが認められないことが海外から批判にさらされている。これに対して日本政府は、刑事手続が異なるからと弁明している。議論がかみ合わない。

なぜ長期勾留や弁護人の立会いなしが問題とされるのか。その根本に迫る議論が不足している。

本質は日本の取調べ偏重にある。朝から晩まで取調べ、何日も何日も取調べ、それがいつまで続くかわからない、というのは日本だけである。当の本人はいつ釈放されるかわからず、早く出ることが最も切実な問題となり、裁判所はわかってくれるだろうと勝手に思い込んで、ウソの自白をしてしまう。人質司法といわれる日本の刑事司法の異常性だ。

諸外国では、取調べは数回で終わる。せいぜい1日数時間、12日程度である。客観証拠を重視し、取調べに重きを置かない。

日本は、石を抱かせて拷問するような江戸時代のお白州裁判が今も続いているといわれる。証拠が乏しいから、捕まえて自白を取ろうとする。代用監獄に長期間勾留して肉体的精神的に追い詰めて自白を強要する。国連人権理事会などから再三改善勧告されている。

取調べは適正に規制されなければならない。これが近代刑事司法である。

私は、2013年国連の拷問禁止委員会日本審査を日弁連代表として傍聴した。取調べへの弁護人の立会いが捜査の妨げになると弁明していた日本政府に業を煮やしたドマ委員(当時、モーリシャス最高裁判事)が、「まるで“中世”だ」と言った。この模様を、帰国して私のブログに書いたところ、1日で52000件のアクセスがあった。世界中に広がり、ユーチューブにも載った。

2011年「検察の在り方検討会議」が、「取調べに過度に依存した現在の捜査実務を根本から改める必要がある」と提言した。公の文書であるが、実態は今も変わっていない。近代以前の刑事司法だから、“中世”と言われるのだ。

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