2020年5月17日 (日)

内閣が検察の暴走を止める?

検察庁法改正案に反対する理由は、行政権が司法権に介入する点である。

ところが、検察の暴走を止めるのは内閣だとして、法案に賛成する議論がある。

そうだろうか?

法案は、内閣が検察幹部の任期を延長する制度である。法案が成立すれば、暴走する検察トップの任期を延長するのであるから、検察の暴走を助長するだけである。法案賛成の理由にならない。暴走する検察を止めるのは裁判所であり弁護士である。

権力はできるだけ分散させるべきというのが近代民主主義の考え方である。

公取委、中労委などの独立行政委員会がそうだ。韓国の憲法裁判所は三権とは異なる第4の権力とされる。ニュージーランドには、警察を監視する別の「独立警察機関」がある。

ところが、安倍内閣は内閣人事局で官僚の人事を掌握し官僚組織を滅茶苦茶にし、慣例を無視して、内閣法制局のトップを恣意的に入れ替え、NHKや最高裁裁判官人事に介入し、ついには、検察の人事に介入しようとしている。

このような、内閣に一元化する動きは、時代に逆行するファシズムである。
弁護士・検事たち法律専門家が司法の独立を侵すとしてこぞって法案に反対しているのに、無視する内閣は、日本国憲法の三権分立の理念を全く理解していないといえよう。

専門家と市民の協働の意見に真摯に耳を傾けるべきだ。

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2020年3月 9日 (月)

新型コロナ新法と検察庁法改正の関係性

閣僚が50万円ポケットに入れたり、伊藤詩織さんへの準強姦容疑事件、モリカケ問題での公文書破棄等々、検察庁がなぜ立件して起訴しないのか、不思議だった。

最たるものは、花見問題。検察がその気になれば立件でき、ホテルから簡単に明細書を入手することもでき、真相解明へと動くはずなのに、一向に動かない。

なぜ検察がこれほど動かないのか。内閣官房の中に検察を抑えている者がいたからではないかと言われる。

検察官定年延長問題がそれにかかわる。検事総長が変わればこれらの真相が一挙に解明されることを恐れて、そういう事態を避けるためには、内閣官房にいた黒川氏が検事総長になってもらわなければ絶対に困るという事情があるといわれる。

何が何でも黒川氏を検事総長にするために、従来の解釈を「変更」してまで、黒川検事の定年を延長した。その後付けの説明がくるくる変わるのは無理もない。

民主主義国家の基本である三権分立にかかわる大問題であるだけに、メディアでも大騒ぎになるはずだが、新型コロナのためにトップニュースにならない。安倍内閣にとってはコロナ様様といった状況である。

安倍首相が最初の3分とか8分でコロナ対策会議を離席したという報道に接すれば、本気で新型コロナ対策をするのではなく、新型コロナ騒ぎになった方が花見や検察定年延長問題が隠れていいと思っていたのではないかとさえ見える。

それでも野党議員やメディアは頑張り、検察官定年延長解釈変更の違法性が明確にされると、今度は検察庁法を改正して、定年を変え、しかも、遡って適用されるようにとしている。解釈がダメなら法律で変えればいいというのであろう。

確かに、こんな違法な解釈で検事総長になってまともな仕事ができるわけがないから、法改正して後付けでも合法性を装いたくなる気持はわかる。しかし、遡及効が法制度上通用するわけがなく、こんな立法で無理押しして検事総長になっても、まともな仕事ができないことは同じであろう。そこまでされてなった検事総長に誰がついて行くのか。検事総長決済の仕事には違法という裁判が続出する恐れもある。

いま、新型コロナ新法を作ってこれにも遡及効を入れようとしているのは、検察庁法改正のための馴らし運転としか見えない。新型コロナ新法を作る理由も、遡及効とする理由もないからである。

国民のためではなく、私的に、権力維持のために、政治を、行政を破壊している安倍内閣であるから、新型コロナ対策が後手後手に回る。それが批判されると、思い付きで免罪符的に、全国一斉休校とか、韓中入国拒否というパフォーマンスを断行する。現場がどれほど混乱するか想像しなかたっただろうか。病院では看護師が休み、困難に直面している。

感染者数が毎日報じられているが、検査していないのにどれほど意味があるのか。東京が北海道よりも少ないということはあり得ない。東京オリンピックを開催したいためにあえて検査しないのか、と疑いたくさえなる。

というように、政治不信は頂点に達しつつある。国民に資料を公開し、国民と共に、国民のための政治をする、そういう政治に転換しないと、本当に日本は滅びてしまうのではないかとさえ危惧してしまう。

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2020年1月 9日 (木)

ゴーン逃亡と犯罪人引渡条約

昨夜のゴーン記者会見は予想通りの内容であったが、そこでの日本の刑事司法制度批判は的を射ていた。日本政府が国連から何度も勧告を受け、”日本の刑事司法は中世“とも皮肉られていた問題であり、日弁連も長年批判し続け、私のブログにも度々登場している。

ゴーン被告はもう日本には戻ってこないであろう。

日本はレバノンとの間で犯罪人引渡条約を締結していないために、ゴーンを日本に連れ戻すことができない。レバノン政府に引渡義務がなく、レバノン政府が自ら引渡すことはできるが、それはレバノン政府の意向次第である。しかし、レバノン政府が引渡すことはあり得ないであろう。

日本が犯罪人引渡条約を締結している国は米国と韓国の2カ国しかない。

イギリス、フランスは、約100ヵ国と犯罪人引渡条約を締結しているが、なぜ、日本との間で締結されていないのか。

日本に死刑制度が未だにあるからである。

死刑が廃止されている国から死刑になるかもしれない犯罪人を引渡すことはできないというのが理由である。

ちなみに、フィリピンも死刑廃止国であり、数年前、日本から凶悪犯人とされる共犯者たち数名がフィリピンに逃亡してしまった例がある。

死刑制度が凶悪犯人を逃している現実がある。

また、今市事件では、「自白しなければ死刑になるぞ」と脅され、ウソの自白を強要された。死刑制度がえん罪を作っている例である。

いずれにしろ、この機会に、死刑を含む日本の刑事司法制度について、真剣に検討されることを望む。

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2019年11月27日 (水)

『軍馬と楕円球』

中野慶『軍馬と楕円球』(かもがわ出版)が今年7月発刊された。

 

日本が燃えたワールドカップラグビー開催に合わせて刊行されたのであろうか。まさにタイムリーそのものである。

 

私もこのワールドカップでラグビーのルールを多少知ったが、それが本書の「楕円球」理解に役立った。

 

でも、ラグビーは背景というか、著者の青春の思い出という味付けであろう。

 

主題は、1930年代日本の戦争責任を問うものである。対話形式で、いろいろな角度から論点を出している。その方式が、日本国憲法論にも展開されている。

 

「軍馬」はその戦争論を下支えする道具として、馬の視点から考えたこともない一般読者からみれば、きわめて興味深い。

 

支配層の戦争責任、国民の戦争責任、…答えが出ているわけではない。

 

多角的なものの見方を提供している。

 

相手の論理を知ることによって、自分の見方も深まる。

 

その相互作用によって、先に進む。

 

このキャッチボールが、楕円球=ラグビーである。

 

著者の深い思考が垣間見える。

 

 

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2019年10月29日 (火)

取調べの録音の証拠化

2016年刑訴法が改悪された。その衆参両院法務委員会での審議に私は法案反対の立場から参考人として出席した。20164月の参議院法務委員会では、1審判決が出たばかりの今市事件を例に挙げて、取調べのビデオ録画を刑事法廷の証拠とすることがきわめて危険であることを強調した。成文堂『取調べのビデオ録画~その撮り方と証拠化』(小池ら編著)などでも度々警告した。

 

周防正行監督は、「映像には情報が膨大に詰まっているので、人は映像の中に見たいものしか見ない」と指摘し、取調べ映像を判断に用いるのは無理であるという(拙稿「可視化は弁護をどう変えるか」『可視化・盗聴・司法取引を問う』日本評論社2017年)。裁判の公判中心主義に反し、裁判所の自殺行為である。フランス、イタリア、台湾、韓国の裁判所では、ビデオ録画が公訴事実を直接証明するための実質証拠としては用いられていない。

 

法案成立後、さすが裁判所は、ビデオ録画の証拠化に消極的な姿勢を示した。最近は、録画は排除し、録音のみを証拠採用する例が出た。録画と録音は大きく異なるから、まずはこの姿勢を評価したい。

 

しかし、一部録画だけでなく一部録音にも共通の危険性があることは否定できない。録音を証拠化するなら、全部録音し、それを弁護人に開示すべきであろう。そうしなければ、いいとこ取りの誹りを免れない。

 

 

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2019年6月22日 (土)

ユゴー『死刑囚最後の日』

 

『レ・ミゼラブル』(1862年)のヴィクトル・ユゴーが、27歳になる直前の1829年に出版したのが『死刑囚最後の日』。日本では3度目の翻訳版が昨年暮に光文社古典新訳文庫になった。

初版は匿名で出版された。世間の反応が読めず、怖かったのであろう。案の定、賛否両論が渦巻いたようだ。その反応を踏まえて、ユゴーは、第3版(1832年)は実名で、対話形式の長いまえがきと長い序文を書き、堂々と死刑廃止論をストレートに展開した。本書にはその翻訳まで掲載されているから、興味深い。

1789年フランス革命からわずか40年後に出版されたのであるが、第3版まえがきと序文には、今日の死刑制度についての賛否両論がほとんど出尽くされていることに驚いた。200年前に議論されていることが未だにそのまま議論されているのだ。

ちなみに、18482月革命により第2共和政が成立し、政治犯の死刑が廃止された。ユゴーは議員となり、憲法制定議会で死刑廃止を訴える演説を行った。

200年経っても同じ議論をしているとは、200年経っても世の中変わらないのか。あるいは、200年というのはつい最近のことなのか。

もっとも、ヨーロッパでは前世紀末までに死刑が廃止され、米国でも、つい先月ニューハンプシャー州で死刑が廃止され、死刑廃止21州・停止4州となり、米国の州の半分の25州が死刑廃止・停止州となった。

しかるに日本では、相変わらず200年前と同じ議論がなされている。ところで、昨年のオウム死刑囚13名全員の処刑は世界を驚かせ、日本の死刑制度に対する内外の関心が高まっている。昨年死刑全面廃止を打ち出したローマ教皇が、今年11月来日する。日弁連は、東京オリンピック・パラリンピックが開かれる来年までに死刑廃止の目途をつけることを宣言し、運動を展開している。この機会に、本書が多くの日本人に読まれることを期待したい。

 

 

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2019年1月13日 (日)

なぜ日本は“中世”と言われるか~ゴーン事件で比較され

ゴーン事件で、日本の長期勾留や取調べに弁護人の立会いが認められないことが海外から批判にさらされている。これに対して日本政府は、刑事手続が異なるからと弁明している。議論がかみ合わない。

なぜ長期勾留や弁護人の立会いなしが問題とされるのか。その根本に迫る議論が不足している。

本質は日本の取調べ偏重にある。朝から晩まで取調べ、何日も何日も取調べ、それがいつまで続くかわからない、というのは日本だけである。当の本人はいつ釈放されるかわからず、早く出ることが最も切実な問題となり、裁判所はわかってくれるだろうと勝手に思い込んで、ウソの自白をしてしまう。人質司法といわれる日本の刑事司法の異常性だ。

諸外国では、取調べは数回で終わる。せいぜい1日数時間、12日程度である。客観証拠を重視し、取調べに重きを置かない。

日本は、石を抱かせて拷問するような江戸時代のお白州裁判が今も続いているといわれる。証拠が乏しいから、捕まえて自白を取ろうとする。代用監獄に長期間勾留して肉体的精神的に追い詰めて自白を強要する。国連人権理事会などから再三改善勧告されている。

取調べは適正に規制されなければならない。これが近代刑事司法である。

私は、2013年国連の拷問禁止委員会日本審査を日弁連代表として傍聴した。取調べへの弁護人の立会いが捜査の妨げになると弁明していた日本政府に業を煮やしたドマ委員(当時、モーリシャス最高裁判事)が、「まるで“中世”だ」と言った。この模様を、帰国して私のブログに書いたところ、1日で52000件のアクセスがあった。世界中に広がり、ユーチューブにも載った。

2011年「検察の在り方検討会議」が、「取調べに過度に依存した現在の捜査実務を根本から改める必要がある」と提言した。公の文書であるが、実態は今も変わっていない。近代以前の刑事司法だから、“中世”と言われるのだ。

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2018年9月24日 (月)

今市事件控訴審判決の論理破綻

今市事件控訴審判決を読んで驚いた。

1審判決は、客観的証拠だけでは犯人かどうかわからないとして、自白供述を拠りどころに有罪認定した。ところが2審判決は、客観的証拠で犯人性をかなり推定できるとした。その決め手となるのが、Nシステムと母への手紙という。

しかし、Nシステムの信頼性がどこまで科学的に証明されたのか。遺体破棄現場からかなり離れたところを車で通過したとして、それで犯人だと推定できるのか。8年前なぜその時そこを通過したのか、思い出せるのか。

母への手紙は、客観的証拠というよりも、自白供述といっていい。2審判決は、文面に迫力があるから信用できるというが、いくらでも誘導・指導により迫力ある手紙は書ける。本件殺人の自白であっても、「反復自白」(任意性を欠く自白に引き続いて、再度取調べられた結果なされた自白も、同様に排除されるべきである)に過ぎない。決め手にはならない。

 これだけで有罪とするのは無理だから、結局、自白供述に頼るしかなくなる。そこで1審判決有罪の決め手となったのが取調べの録画であった。2審判決は、取調べの録画を実質的証拠とすることの危険性を指摘し、排斥した。それを理由に1審判決を破棄した。そうなれば、自白調書の任意性、信用性が疑われ、客観的証拠だけでは犯人性を確定できないのだから、無罪とならなければならない。

 審判決は、殺害場所や殺害態様に関する自白の信用性を否定した。ところが被告人が犯人であることの自白の任意性、信用性は認めた。具体的な犯行状況の自白の信用性は認めないで、ただ殺しましたという抽象的な自白は信用できるとする。

逆ではないか。本件のように、取調べで、「証拠はそろっているから自白しなくてもいい。否認して死刑になるよりは自白して20年で出てこられる方がいいと思うが。」と言われれば、ウソでも自白したくなるであろう。具体的な犯行状況の根幹にかかわる自白が信用できないなら、ただ「殺しました」という抽象的な自白はなおさら信用できないのではないか。

 しかも審判決は、取調べ前半の自白の信用性を否定しながら、50日間何も取調べなかったからその後の自白は信用性があるという。驚くべき立論である。警察が24時間被疑者・被告人を手元に置いて全生活を支配する代用監獄の実態が全くわかっていない。50日間代用監獄に入れられたままでは、その前の状況が続いているとみる方が自然である。

なお、「(検察の)取調室の窓から脱出しようとして戒護の警察官らに引きとどめられた…(なお、当日、さらに警察官による取調べは行われている。)。」との指摘に注目したい。検察取調べになぜ警察官が立ち会っているのか。それでは警察での取調べによる威嚇が検察取調べにも影響することになる。絶対に避けるべきである。判決がこの事実を認定しながら、その後の自白の信用性を認めたことも納得できない。

 ただ、取調べの録画を実質的証拠とすることの危険性を論じたところは説得力がある。さすが、2年前に東京高裁裁判長としてこの問題の危険性を鋭く指摘する画期的な判決を出しただけのことはある。取調べの録画を実質証拠とすることを勧めた最高検依命通知に真っ向から敵対し、裁判所の見識を示したものとして高く評価される(牧野茂・小池編『取調べのビデオ録画―その撮り方と証拠化』成文堂2018年、拙稿「可視化は弁護をどう変えるか」『可視化・盗聴・司法取引を問う』日本評論社2017年)。今回の判決はそれをさらに補充するものであった。

取調べの録画を実質的証拠とすることは、「印象に基づく直感的な判断となる可能性が否定できず、…熟慮を行うことをむしろ阻害する影響がある」「自己の刑責を実際よりも軽いものにするためにした虚偽供述であるとの疑いを否定することができず」「自発的であっても、虚偽供述の可能性があることが、見落とされる危険性がある。」と2審判決は指摘する。

そこまでいうなら、なぜ本件の場合も、「否認して死刑になるよりは自白して20年で出てこられる方がいい。」と言われた被告人の心境に思いを致さなかったのか。2年前に審判決は、取調べの録画を証拠とすることの危険性をこれほど指摘しながら、結局は事実上録画で心証をとったのではないか、と皮肉もいいたくなる。具体的な犯行状況の自白の信用性を否定しながら、殺しましたという抽象的な自白は信用する逆さまの論理もそこから出てきたのではないか。

このような論理的に破綻している判決をなぜ出したのか。取調べの録画を証拠とすることの危険性をストレートに指摘したこととのバランスをとって、有罪判決としたのではないかと勘繰りたくもなるであろう。

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2018年6月17日 (日)

『共謀罪コンメンタール』新発売

共謀罪法が昨年711日施行されて、1年になろうとする。その間、1件も適用例はない。

この法律を読み解き、政府答弁の通りに解釈すれば、会社、市民団体に適用される余地はないが、あいまいな条文であるために、濫用される恐れは否定できない。

 

そこで、厳格な解釈を迫り共謀罪から会社、市民を守る解説書を現代人文社で発行した。編著者は私を含む3人。

その出版を記念する集会が共謀罪対策弁護団主催で施行日の来月11日午後6時半から文京シビックセンター4階シルバーセンターホールで開かれる。

共著者による解説、編著者3人の執筆秘話などを予定している。

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2017年7月18日 (火)

TOC条約締結で犯罪人引渡を受けられるか

TOC条約(=国連犯罪防止条約)締結のためという理由で、共謀罪が成立した。

日弁連は、共謀罪がなくても条約締結できるという立場であり、共謀罪策定の口実としてTOC条約締結を利用しているだけだと訴えてきた。

711日共謀罪施行を受けて、法務省HPが更新された。

これでTOC条約に加盟し、犯罪人引渡条約がなくてもスムーズに犯罪人引渡ができると手放しで喜んでいる雰囲気が伝わってくる。

ちなみに、日本が犯罪人引渡条約を締結している国はアメリカと韓国の2ヶ国だけ。

法務省HPには、TOC条約がない場合には、ドイツ、フランスなどには、犯罪人引渡条約がなくても国際礼譲で引渡請求はできるが、対応する義務はなく、フィリピン、オランダなどは条約が必要で引渡を受けられないと記載されている。

ところが、TOC条約があれば、いずれにせよそれを根拠として引渡請求が可能になり、相手国には引渡手続を迅速に行うよう努力する義務が生じるという。

しかし、TOC条約に加盟しても、努力義務だけでは、ヨーロッパ諸国とは、死刑の可能性がある事件は相変わらず犯罪人引渡ができないことに変わりないであろう。

法務省HPはそのことに頬被りしている。

「テロ対策」だとして「テロ等準備罪」と銘打って(ごまかして)共謀罪を成立させた以上、テロに関わる死刑の可能性がある事件の犯罪人引渡がどうなるか、何も触れないのはおかしい。

テロのような死刑事件では、相変わらず引渡を受けられないときちんと説明すべきであろう。

このような事件で本当に引渡を受けるためには、日本でも死刑を廃止するしかない。それが実は、日本での裁判を求める事件被害者のためにもなることである。 

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