2022年8月22日 (月)

『同志少女よ、敵を撃て』

ロシアのウクライナ侵略は、戦後世代の私たちにとっては、戦争というものをリアルに身近に感じさせることとなった。

確かに、戦後間もない生まれの私にとって、祖父母、両親、親戚から戦争の話は聞かされていたし、実際に、伯父に当たる人が何人も亡くなっている。父親を亡くしたいとこが複数いる。また、幼いころ、足を無くした傷痍軍人が路上で物乞いしている姿もよく見かけた。今でも鮮明に覚えている。しかしこれらは、およそ戦争被害の体験であった。

ベトナム戦争は日本の基地から米軍が飛び立っていたが、日本にとっての切迫感はあまりなく、湾岸戦争、アフガン戦争も身近な戦争ではなかった。

ところが、今回のウクライナ戦争は、身近な戦争という感がある。戦後であったはずの今日、現在進行形で戦争が進められている現実を実感させる。あのソフィアローレンの映画『ひまわり』の舞台となった広大なお花畑があるウクライナで今まさに戦争が行われている。同時進行的に報じられるメディアの影響大である。

戦争とは何なのか。おびただしい血を流している人々を思うと、何とかならないのかと悔しさを覚える。

そこで、日本以上に多くの死者を出したソ連の防衛戦争に思いが至る。独ソ戦の実態はどうだったのか。

今年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は、ソ連軍の女性狙撃兵(スナイパー)を主人公とした異色の戦争小説だ。五百頁近い長編であるが、一気に読ませる。ウクライナも舞台となっており、ウクライナ戦争の前に出版されているが、まるでウクライナ戦争を予感したように、現在のウクライナ戦争とオーバーラップされる。

スターリングラードとウクライナがこんなに近いとは知らなかった。郊外の戦争も市街戦も陣地戦であり、ひとつ一つ陣地を取っていくのが戦争なのだ。軍隊には様々な任務分担があり、歩兵と狙撃兵はまるで違う。等々、戦争の実態をリアルに壮大に展開する。ソ連兵もドイツ兵も軍人としてはその本性は同じ。が、祖国防衛という社会主義国を標榜する大義名分により異なるところもある。読み進むと、敵か味方か、その線引きも空しくなる。

権力が軍隊を組織し、戦争を進める。戦争を大局的にも、現地戦として具体的にも、トータルに実感させ、かつ戦争の理不尽さを思い知らされる傑作である。

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2022年2月27日 (日)

2022年球春

2022年プロ野球開幕が待ち遠しい。

昨年はオリックスバッファローズのリーグ優勝に小躍りしたが、今年は、日本シリーズも制覇したい。

昨年の日本シリーズは、ほとんど1点差試合であった。前回のブログに、オリックスが負けたのは仕方がないと書いたが、実は、状況次第ではそうでなかった。球界ナンバーワンのバッター吉田正尚の調子次第であったともいえる。

リーグ戦終わりの怪我とデッドボールで2度にわたって欠場したときは、リーグ優勝も無理かと思ったが、ナインが奮起して、何とかリーグ優勝した。吉田は日本シリーズには復帰して、1回戦のサヨナラ逆転打をはじめ、前半は大活躍した。

しかし、シリーズ後半は芳しくなかった。球界で最も三振しないバッターが、ボール球のスライダーにあっさり三振するシーンが続いた。信じられない場面であったが、後に、友人の医者が、あれは明らかに疲れからだと指摘した。病み上がりの体力不足が最後になって現れたのだ。

そういえば、何十年も前のことだが、日本シリーズで広島カープの山本浩二が大活躍しながら、後半、特に引き分けにより8試合目に突入した最終戦で全く不調でカープが敗退したことを思い出した。これは年齢によるものだろうが、昨年の吉田の場合は、病み上がりの体力不足だ。

今年はそういうことのないように、吉田には、怪我をせずにフルシーズン目いっぱい頑張ってほしい。

球春真近。

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2022年1月 9日 (日)

2021年プロ野球回顧

オリックスバッファローズのパリーグ優勝は、阪急ブレーブス時代からのファンである私にとって、最高のプレゼントだった。

コロナ禍、大谷翔平とオリックスの活躍に救われたともいえよう。

昨年の1年間、オリックスが負けた試合をテレビで見ても充実感があった。

次はこうすればいい、と監督になったつもりで、教訓を得ることがその日の収穫と思え、楽しめた。こんな気分になったのは初めてだ。

ヤクルトスワローズとの日本シリーズ対戦は、誰からも面白かったとの評判。

力が拮抗したチーム同士で、どちらが勝ってもおかしくない試合が続いたからだろう。

日本シリーズでオリックスが負けても、やはりそれなりに楽しかった。

2年連続最下位のオリックスがこれだけ注目され、見直され、かつ試合内容もヤクルトと対等にたたかい、充実していたからだ。その落差に微笑んだ。

でも、正直なところ、走攻守監督、すべての面で、少しずつ、ヤクルトが上だと思った。

オリックスが負けたのは仕方がないと思う。ラッキーがもう少しあれば勝つ可能性もあったと思うが。

監督の差について最終の試合でいえば、投手に代打を送らず、次に投げさせて打たれて降板というところは、やはり代打を出すべきだった、結果論だが。

ジョーンズが敬遠される状況が見えながら、そうさせてしまい、1打席も打たせられなかった。

これらは、DH制のパリーグ監督故の不慣れと思われるが、1点差ゲームに響いた。

そもそも、日本シリーズ開始前に、ヤクルト高津監督が先発投手の登板予告を拒否した時点で、オリックスは負けるかなと思った。

恥も外聞もなく拒否したところに、日本シリーズにかける高津監督の意気込みを感じたからだ。そして、「絶対大丈夫」と選手たちに言い続けた。

それに対してオリックス中島監督は、それでも先発投手の登板を概ね予告した。対抗上、予告は拒否すべきだったろう。ここにスマートさを気にして、勝負に対する執念の相対的な弱さを感じたといえば言い過ぎであろうか。

それでも中島監督を非難するつもりはない。

リーグ戦での中島監督の采配ぶりには感心した。

リーグ戦開始当初、ショートの紅林がミスを続けながらも使い続けた。

杉本がとんでもないボールを空振りして三振を繰り返しながらも使い続けた。

周りからそれなりには非難があったろう、と思う。

それでも使い続けた監督の見識と意地に頭が下がる。それでリーグ優勝したことは間違いないのだから。

今年はリーグ優勝にとどまらず、日本シリーズ制覇に意欲を燃やすであろう。

他球団も負けてはいまいが、今年がさらに楽しみだ。

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2022年1月 7日 (金)

『小説 岩波書店取材日記』

中野慶著(かもがわ出版)の本書は、小説の形をとってはいるが、岩波書店の職場が経営と労働組合の関係性を軸にして細部までリアルに描かれている。岩波の中にいた人間でなければ絶対に書けない書である。

知は力なり。岩波書店の伝統に対する愛着。特定のイデオロギーにとらわれず、政党政派に偏ることなく、しかし断固として平和と民主主義の前進を追求する立ち位置に対するリスペクト。

同労組の古さと純粋さと柔軟さ。その人間性に対する信頼。

著者は、岩波書店と同労組に対する限りない愛情をもって綴る。

保守性と進歩性。一見矛盾する色彩が、会社にも組合にもあるが、それが多様性という形で共有されているところに特質がある。

本書は、登場人物の会話を通して、この様々な側面を正直に表出する。会話の中で、対立した見解を述べ合うことによって、その多面性と統一が浮き彫りにされる。

見事な形態を考え出したものだ。

20年間同労組の顧問弁護士であった私としても共感するところ大である。

もちろん私はごく一部を垣間見ただけであるが、納得感がある。

登場人物の雑談の中に、「マルクスがフォイエルバッハを乗りこえたという常識の再検討」「レーニンと訣別」といった会話も登場してくるが、次著はこの辺を深堀してほしいと思う。

ちなみに、私についても触れられている。そこで紹介されている拙著『刑事司法改革 ヨーロッパと日本』(岩波ブックレット・共著)は、著者の編集により生まれたものであった。

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2021年12月22日 (水)

死刑制度がえん罪を作り出している

昨日、3人の死刑確定者が死刑執行された。この機会に、死刑制度とえん罪の関係について考えてみたい。

死刑となるかもしれない凶悪事件が発生し、犯人と思われる被疑者を取調べるとき、捜査官が必ずいう常套セリフがある。

「証拠はそろっている。それでも否認したら死刑になるぞ。素直に認めれば懲役で済む。よく考えろ。」

「証拠はそろっている」というのはブラフであるが、自らはえん罪であることを当然わかっていても、捜査官にそう言われれば、そういう証拠があるんだと思ってしまい、死刑にだけはなりたくない、死刑にさえならなければ何とかなるだろう、あとで裁判官にはわかってもらえるかもしれない、などと思って、取調官の言うなりに自白する。

とにかく死刑だけは何とか避けたい、と思って積極的にウソの自白をする。ああでもない、こうでもないと想像を巡らして、取調官の誘導に自らすがり付き、迎合して自白する。このようなケースが多い。袴田事件、布川事件、今市事件など、すべてその構造だ。

死刑には絶対になりたくないから、ウソの自白をする。死刑制度があるために、それを利用して自白が強要されているのだ。死刑制度自体がえん罪を特別に作り出している関係にある。

えん罪は死刑事件以外にもたくさんある、えん罪を理由に死刑廃止を主張するのはおかしい、という意見があるが、死刑制度とえん罪の特別の関係が見逃されている。

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2021年9月10日 (金)

戦争遂行者の無責任体制

 

保阪正康『陰謀の日本近現代史』(朝日新書2021年)を読んだ。そのカバーには、「戦争と大事件の『闇』を照らす」として、「『歴史を変えた』のは誰なのか 私はいま光を当てたい」との著者の言葉が記されている。

支配体制の組織性、責任体制がいかに脆弱であったか、日米開戦から、いやそれ以前から、敗戦に至るまで、日本の支配層は一貫してそうであったし、それを支える忖度と自己本位の世界であったようだ。

そんな権力体制の下で、戦争の前面に立たされ、殺し、殺されていった人々の無念、大空襲、原爆の悲惨さを思うと、どうしようもない情けなさと無力感に囚われてしまう。

いまの日本のコロナ対策を連想する人は少なからずいるだろう。

「自宅療養」と称して自宅放置される無念さはいかばかりであろう。

このような日本を変えるには、一人一人独立した合理的な人間に育てる教育しかない。

目の前の一つ一つに真摯に向き合い、その輪を拡げていくしかない。

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2020年12月15日 (火)

国家機関と独立性

首相が、学術会議推薦候補者6名の任命を拒否した。任命権が首相にあるから拒否できるという。その根底に、国家の機関は国の税金で賄われるから国民の負託を受けた内閣がその運用に責任をもつべきであるという考え方がある。

この論を進めれば、国立大学の先生は国税から給料が出ているから、内閣が人事などに介入する責任があるということになる。これでは大学の自治などないに等しい。

要するに、国がお金を出すところには独立性がないのか、という問題である。

金は出しても口は出さない、というのが学問の自由であり、近代民主主義の進化の歴史であったはずだ。

国連が推進する国内人権機関(国家人権委員会)は、国際人権を各国内に実現するために、各国に国の機関として作られる人権委員会である。公的機関であるが政府からの独立性がなければならない(パリ原則)ものとして、1993年国連総会で決議され、現在123ヵ国で設置されている。2002年には韓国国家人権委員会が設置され、ときの政府に対しても遠慮なくその立法や施策を批判している。しかしその費用はすべて国が負担しているのだ。

各種第三者機関の設置が時代の要請とされているが、金は出すけれど口は出さないというのが第三者機関の要諦である。国家人権委員会はその最たる第三者機関である。

私が編著に関わった、近刊『国際水準の人権保障システムを日本に 個人通報制度と国内人権機関の実現を目指して』(日弁連第62回人権大会シンポ第2分科会実行委員会編・明石書店)は、国家人権委員会について、最新の情報を含め、これ1冊を読めば全体像がよくわかる構成になっている。監視社会に対抗する国内人権機関の役割や、日弁連人権大会シンポで私が司会を務めたパネルディスカッションの模様など満載している。

国連条約機関が日本政府に対して、政府から独立した国家人権委員会を設置するようにと度々勧告しているが、これに対して日本政府は、前向きに取組むことを表明している。

ぜひ多くの人にこの本を読んでいただき、日本で早期に国家人権委員会設置を実現したい。

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2020年10月19日 (月)

「自立・自助の原則」

菅首相就任での「自助、共助、公助」というあいさつが注目されている。

そこで思い出すのは、1995年阪神淡路大震災のときの村山首相が「自立・自助の原則」を強調し、個人への国家補償を否定したこと。天災には国は責任を負わないという姿勢だった。

当時、私はテレビのワイドショーで、「資本主義国の最たる国アメリカでもロス地震では最高200万円援助されている。村山首相がいう『自立・自助の原則』はおかしい」と批判した。

1997年ドイツの大洪水では政府が最高200万円支給」「そもそも自然災害から守るために治水し、被災者には食糧補給することは、資本主義社会以前から、昔から、その国の為政者が当然の治政としてやってきたこと…政治は国民を助けることにあるということが、欧米デモクラシー国家で自明の原理である」(拙著『ワイドショーに弁護士が出演する理由』平凡社新書2001年)。

あれから四半世紀、東日本大震災を経て、九州の大洪水など、いまは新型コロナで国もわずかではあるが10万円の個人補償をした。個人への国家補償に誰も文句を言わなくなった。隔世の感がする。

だが、休業補償ははっきりしない。アメリカやドイツの新型コロナ対応と比べてあまりにもレベルが低い。

ときの総理大臣は、「自立・自助の原則」を強調しなくはなったが、「自助、共助、公助」と相変わらず、「自助」を前面に出している。

徐々に進んではいるが、欧米諸国とのデモクラシーの差を感じないわけにはいかない。

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2020年5月17日 (日)

内閣が検察の暴走を止める?

検察庁法改正案に反対する理由は、行政権が司法権に介入する点である。

ところが、検察の暴走を止めるのは内閣だとして、法案に賛成する議論がある。

そうだろうか?

法案は、内閣が検察幹部の任期を延長する制度である。法案が成立すれば、暴走する検察トップの任期を延長するのであるから、検察の暴走を助長するだけである。法案賛成の理由にならない。暴走する検察を止めるのは裁判所であり弁護士である。

権力はできるだけ分散させるべきというのが近代民主主義の考え方である。

公取委、中労委などの独立行政委員会がそうだ。韓国の憲法裁判所は三権とは異なる第4の権力とされる。ニュージーランドには、警察を監視する別の「独立警察機関」がある。

ところが、安倍内閣は内閣人事局で官僚の人事を掌握し官僚組織を滅茶苦茶にし、慣例を無視して、内閣法制局のトップを恣意的に入れ替え、NHKや最高裁裁判官人事に介入し、ついには、検察の人事に介入しようとしている。

このような、内閣に一元化する動きは、時代に逆行するファシズムである。
弁護士・検事たち法律専門家が司法の独立を侵すとしてこぞって法案に反対しているのに、無視する内閣は、日本国憲法の三権分立の理念を全く理解していないといえよう。

専門家と市民の協働の意見に真摯に耳を傾けるべきだ。

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2020年3月 9日 (月)

新型コロナ新法と検察庁法改正の関係性

閣僚が50万円ポケットに入れたり、伊藤詩織さんへの準強姦容疑事件、モリカケ問題での公文書破棄等々、検察庁がなぜ立件して起訴しないのか、不思議だった。

最たるものは、花見問題。検察がその気になれば立件でき、ホテルから簡単に明細書を入手することもでき、真相解明へと動くはずなのに、一向に動かない。

なぜ検察がこれほど動かないのか。内閣官房の中に検察を抑えている者がいたからではないかと言われる。

検察官定年延長問題がそれにかかわる。検事総長が変わればこれらの真相が一挙に解明されることを恐れて、そういう事態を避けるためには、内閣官房にいた黒川氏が検事総長になってもらわなければ絶対に困るという事情があるといわれる。

何が何でも黒川氏を検事総長にするために、従来の解釈を「変更」してまで、黒川検事の定年を延長した。その後付けの説明がくるくる変わるのは無理もない。

民主主義国家の基本である三権分立にかかわる大問題であるだけに、メディアでも大騒ぎになるはずだが、新型コロナのためにトップニュースにならない。安倍内閣にとってはコロナ様様といった状況である。

安倍首相が最初の3分とか8分でコロナ対策会議を離席したという報道に接すれば、本気で新型コロナ対策をするのではなく、新型コロナ騒ぎになった方が花見や検察定年延長問題が隠れていいと思っていたのではないかとさえ見える。

それでも野党議員やメディアは頑張り、検察官定年延長解釈変更の違法性が明確にされると、今度は検察庁法を改正して、定年を変え、しかも、遡って適用されるようにとしている。解釈がダメなら法律で変えればいいというのであろう。

確かに、こんな違法な解釈で検事総長になってまともな仕事ができるわけがないから、法改正して後付けでも合法性を装いたくなる気持はわかる。しかし、遡及効が法制度上通用するわけがなく、こんな立法で無理押しして検事総長になっても、まともな仕事ができないことは同じであろう。そこまでされてなった検事総長に誰がついて行くのか。検事総長決済の仕事には違法という裁判が続出する恐れもある。

いま、新型コロナ新法を作ってこれにも遡及効を入れようとしているのは、検察庁法改正のための馴らし運転としか見えない。新型コロナ新法を作る理由も、遡及効とする理由もないからである。

国民のためではなく、私的に、権力維持のために、政治を、行政を破壊している安倍内閣であるから、新型コロナ対策が後手後手に回る。それが批判されると、思い付きで免罪符的に、全国一斉休校とか、韓中入国拒否というパフォーマンスを断行する。現場がどれほど混乱するか想像しなかたっただろうか。病院では看護師が休み、困難に直面している。

感染者数が毎日報じられているが、検査していないのにどれほど意味があるのか。東京が北海道よりも少ないということはあり得ない。東京オリンピックを開催したいためにあえて検査しないのか、と疑いたくさえなる。

というように、政治不信は頂点に達しつつある。国民に資料を公開し、国民と共に、国民のための政治をする、そういう政治に転換しないと、本当に日本は滅びてしまうのではないかとさえ危惧してしまう。

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