2024年8月28日 (水)

『イエスは四度笑った』


畏友のカトリック司祭である米田彰男君が『寅さんとイエス』に続いて、興味深い本を著した(筑摩選書)。
福音書が「イエスが生きた歴史」を修正し、美化し、キリスト教における「教義(ドグマ)」が形成されていることを大胆かつ率直に随所に指摘している。
「右の頬を打つ者には、左の頬を」の意味するところ、「情欲をもって女を見る者は誰でも、すでに心の中で女を姦淫したことになる」という言葉が発せられたシチュエーションなどを分析し、実際のイエスの真意について、従来の福音書の解釈とは異なる新しい視点を提供する。
著者は、現代聖書学の成果を踏まえながら、自信をもって打ち出している。
本書の圧巻は、「追記」であろう。ウクライナ侵攻について、プーチン大統領と共にロシア正教会総主教を批判し、ガザ侵攻については、紀元70年ローマ帝国によるユダヤ王国の破滅に遡り、中東戦争の歴史に触れ、イギリスの「三枚舌外交」を批判し、シオニストたちの原理主義的聖書解釈が「『史的イエス』の『生の言葉』や風貌から遠くかけ離れ、自らに都合のよい解釈を生み出す」と断罪する。
すさまじい迫力であり、ウクライナ侵攻、ガザ侵攻に対する心の底からの怒りに圧倒される。本書を侵攻者たちはもとより、侵攻を悲しむ全世界の人々に読ませたいという思いに駆られる。
聖書を理性的に解釈する著者の本領発揮というべきである。

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2024年7月17日 (水)

『人間の証明』

角川書店前社長の角川歴彦氏が『人間の証明-勾留226日と私の生存権について-』(リトルモア)を出版した。

自らが逮捕・勾留された実体験を赤裸々に述べたものであるが、自らの刑事裁判の決着が付いていない段階で上梓されるケースは珍しい。

日本の刑事司法について、人質司法について、命をかけて告発し、刑事司法改革を求める強い決意が見える。「『人質司法』とは、捜査当局が否認や黙秘をする被疑者や被告人を長期間、身体拘束することで虚偽の自白を強要する日本の刑事司法の実態を指す。」と本書が述べている通りであり、人権侵害の際たるものである。

日本の刑事司法の前近代性について、その根本的欠陥が人質司法、代用監獄という取調べの構造にあることを、私自身長年出版やシンポなどで訴え続けてきた。本書には、アフリカの最高裁判事の「日本の刑事司法は中世」との発言が紹介されているが、これは私がジュネーブでの国連拷問禁止委員会日本審査を日弁連代表として傍聴したとき、その場で実際に聞いた発言である。その模様を、帰国して1週間後に私のブログに書いたところ、1日に52,000件のアクセスがあり、あっという間に世界中に広がった。

本書は今日的問題点をほぼ全面的に簡潔に記載している。ただ、国連人権理事会、国連条約機関から日本政府に対して繰り返し勧告されている国家人権機関の設置について触れられていないのが残念だ。政府から独立した国家人権機関が日本に設立されれば、人質司法の被害者救済や人権侵害の告発、人質司法を打破するための政策提言がたやすく得られるキーステーションとなる。ヨーロッパはもとより、韓国、フィリピンなど世界120ヵ国以上に設置されているにもかかわらず、日本でも2012年に人権委員会設置法案が国会提出されたにもかかわらず、未だ実現していない。

角川氏が「人質司法違憲訴訟」を起こすことを決めた心意気に心から賛同すると共に、日本の刑事司法改革のために共に奮闘することを誓いたい。

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2024年3月20日 (水)

いまこそ、国内人権機関が必要!

ジャニーズ事務所事件などで、国連人権理事会ビジネスと人権作業部会が訪日調査し、昨年8月ミッション終了ステートメントを公表したが、以来、各界に大きな影響を与え続けている。

連合は、同月、「ビジネスと人権に関する連合の考え方」を公表した。

私は明日、「いまこそ、国内人権機関が必要!」というタイトルで国際人種差別撤廃デー記念院内集会において、「国家人権機関の設置を求めて~日本における取り組み」という報告をする機会が与えられたが、ビジネスと人権の視点から国家人権機関の必要性を訴える予定である。

衆議院第2議員会館1階多目的会議室にて12時~14時に開かれる。

 

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2024年1月 8日 (月)

『歌われなかった海賊へ』

1944年、ナチ体制下のドイツ、『究極の悪』に反抗した少年少女の物語」と銘打たれている。連合国軍が迫る中で、ドイツ市民がどのように考え、どのように行動したか。

昨年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』の受賞第1作(早川書房)。

前作は独ソ戦の戦場が舞台であったが、本書は連合軍占領直前のドイツの田舎が舞台だ。

本書も、前作同様、劇画チックではらはらと先を急いて読み進めたくなる。

主人公や周りの人々、市民たちの様々な変化する思いが複合的、重層的に描かれ、人間の多様性が矛盾なく、いや矛盾に満ちた多様性の総和が見事に描かれている。

そこには、誰が悪くて、誰が良い、と二分することができない人々の生きざまがある。誰もが善人であるが、思想的な立場の違いが狂わせる…。

権力に従う多数の市民たち。連合軍支配前も、支配後も。日本の戦前、戦後を連想させる。

著者の勢いに圧倒される意欲作だ。

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2023年12月22日 (金)

『天路の旅人』

沢木耕太郎著の大型ノンフィクション「第二次大戦末期、中国大陸の奥深くまで『密偵』として潜入した日本人がいた」(新潮社)という触れ込みに惹かれて購読したのは今年初めであった。

でも未だにこの本を時々思い出す。何を思い出すかというと、内蒙古から中国大陸の奥深く、チベットからブータン、ネパール、インドまでの長い旅の中での、地元の貧しい人々との交流である。明日の食べ物さえどうなるかわからないのに、同じ境遇の見知らぬ旅人に分け与える人間の心の持ち様であった。

スパイ小説かと思って購入したのに、その期待は見事に裏切られた。むしろ、長い長い旅日記であり、そこに大した筋書きがあるわけではない。淡々と山歩きする姿であったり、お寺の坊さんたちとのさりげない日常であったりの連続である。

しかし、570頁に及ぶ長編を飽きないで一気に読まがせるのは著者の並々ならぬ筆力であろう。人間とは何なのか、思わず考え込んでしまう。そして、大陸の奥深くの雰囲気に浸るのである。年末になっても、その余韻が未だに残っている。

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2022年8月22日 (月)

『同志少女よ、敵を撃て』

ロシアのウクライナ侵略は、戦後世代の私たちにとっては、戦争というものをリアルに身近に感じさせることとなった。

確かに、戦後間もない生まれの私にとって、祖父母、両親、親戚から戦争の話は聞かされていたし、実際に、伯父に当たる人が何人も亡くなっている。父親を亡くしたいとこが複数いる。また、幼いころ、足を無くした傷痍軍人が路上で物乞いしている姿もよく見かけた。今でも鮮明に覚えている。しかしこれらは、およそ戦争被害の体験であった。

ベトナム戦争は日本の基地から米軍が飛び立っていたが、日本にとっての切迫感はあまりなく、湾岸戦争、アフガン戦争も身近な戦争ではなかった。

ところが、今回のウクライナ戦争は、身近な戦争という感がある。戦後であったはずの今日、現在進行形で戦争が進められている現実を実感させる。あのソフィアローレンの映画『ひまわり』の舞台となった広大なお花畑があるウクライナで今まさに戦争が行われている。同時進行的に報じられるメディアの影響大である。

戦争とは何なのか。おびただしい血を流している人々を思うと、何とかならないのかと悔しさを覚える。

そこで、日本以上に多くの死者を出したソ連の防衛戦争に思いが至る。独ソ戦の実態はどうだったのか。

今年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は、ソ連軍の女性狙撃兵(スナイパー)を主人公とした異色の戦争小説だ。五百頁近い長編であるが、一気に読ませる。ウクライナも舞台となっており、ウクライナ戦争の前に出版されているが、まるでウクライナ戦争を予感したように、現在のウクライナ戦争とオーバーラップされる。

スターリングラードとウクライナがこんなに近いとは知らなかった。郊外の戦争も市街戦も陣地戦であり、ひとつ一つ陣地を取っていくのが戦争なのだ。軍隊には様々な任務分担があり、歩兵と狙撃兵はまるで違う。等々、戦争の実態をリアルに壮大に展開する。ソ連兵もドイツ兵も軍人としてはその本性は同じ。が、祖国防衛という社会主義国を標榜する大義名分により異なるところもある。読み進むと、敵か味方か、その線引きも空しくなる。

権力が軍隊を組織し、戦争を進める。戦争を大局的にも、現地戦として具体的にも、トータルに実感させ、かつ戦争の理不尽さを思い知らされる傑作である。

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2022年2月27日 (日)

2022年球春

2022年プロ野球開幕が待ち遠しい。

昨年はオリックスバッファローズのリーグ優勝に小躍りしたが、今年は、日本シリーズも制覇したい。

昨年の日本シリーズは、ほとんど1点差試合であった。前回のブログに、オリックスが負けたのは仕方がないと書いたが、実は、状況次第ではそうでなかった。球界ナンバーワンのバッター吉田正尚の調子次第であったともいえる。

リーグ戦終わりの怪我とデッドボールで2度にわたって欠場したときは、リーグ優勝も無理かと思ったが、ナインが奮起して、何とかリーグ優勝した。吉田は日本シリーズには復帰して、1回戦のサヨナラ逆転打をはじめ、前半は大活躍した。

しかし、シリーズ後半は芳しくなかった。球界で最も三振しないバッターが、ボール球のスライダーにあっさり三振するシーンが続いた。信じられない場面であったが、後に、友人の医者が、あれは明らかに疲れからだと指摘した。病み上がりの体力不足が最後になって現れたのだ。

そういえば、何十年も前のことだが、日本シリーズで広島カープの山本浩二が大活躍しながら、後半、特に引き分けにより8試合目に突入した最終戦で全く不調でカープが敗退したことを思い出した。これは年齢によるものだろうが、昨年の吉田の場合は、病み上がりの体力不足だ。

今年はそういうことのないように、吉田には、怪我をせずにフルシーズン目いっぱい頑張ってほしい。

球春真近。

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2022年1月 9日 (日)

2021年プロ野球回顧

オリックスバッファローズのパリーグ優勝は、阪急ブレーブス時代からのファンである私にとって、最高のプレゼントだった。

コロナ禍、大谷翔平とオリックスの活躍に救われたともいえよう。

昨年の1年間、オリックスが負けた試合をテレビで見ても充実感があった。

次はこうすればいい、と監督になったつもりで、教訓を得ることがその日の収穫と思え、楽しめた。こんな気分になったのは初めてだ。

ヤクルトスワローズとの日本シリーズ対戦は、誰からも面白かったとの評判。

力が拮抗したチーム同士で、どちらが勝ってもおかしくない試合が続いたからだろう。

日本シリーズでオリックスが負けても、やはりそれなりに楽しかった。

2年連続最下位のオリックスがこれだけ注目され、見直され、かつ試合内容もヤクルトと対等にたたかい、充実していたからだ。その落差に微笑んだ。

でも、正直なところ、走攻守監督、すべての面で、少しずつ、ヤクルトが上だと思った。

オリックスが負けたのは仕方がないと思う。ラッキーがもう少しあれば勝つ可能性もあったと思うが。

監督の差について最終の試合でいえば、投手に代打を送らず、次に投げさせて打たれて降板というところは、やはり代打を出すべきだった、結果論だが。

ジョーンズが敬遠される状況が見えながら、そうさせてしまい、1打席も打たせられなかった。

これらは、DH制のパリーグ監督故の不慣れと思われるが、1点差ゲームに響いた。

そもそも、日本シリーズ開始前に、ヤクルト高津監督が先発投手の登板予告を拒否した時点で、オリックスは負けるかなと思った。

恥も外聞もなく拒否したところに、日本シリーズにかける高津監督の意気込みを感じたからだ。そして、「絶対大丈夫」と選手たちに言い続けた。

それに対してオリックス中島監督は、それでも先発投手の登板を概ね予告した。対抗上、予告は拒否すべきだったろう。ここにスマートさを気にして、勝負に対する執念の相対的な弱さを感じたといえば言い過ぎであろうか。

それでも中島監督を非難するつもりはない。

リーグ戦での中島監督の采配ぶりには感心した。

リーグ戦開始当初、ショートの紅林がミスを続けながらも使い続けた。

杉本がとんでもないボールを空振りして三振を繰り返しながらも使い続けた。

周りからそれなりには非難があったろう、と思う。

それでも使い続けた監督の見識と意地に頭が下がる。それでリーグ優勝したことは間違いないのだから。

今年はリーグ優勝にとどまらず、日本シリーズ制覇に意欲を燃やすであろう。

他球団も負けてはいまいが、今年がさらに楽しみだ。

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2022年1月 7日 (金)

『小説 岩波書店取材日記』

中野慶著(かもがわ出版)の本書は、小説の形をとってはいるが、岩波書店の職場が経営と労働組合の関係性を軸にして細部までリアルに描かれている。岩波の中にいた人間でなければ絶対に書けない書である。

知は力なり。岩波書店の伝統に対する愛着。特定のイデオロギーにとらわれず、政党政派に偏ることなく、しかし断固として平和と民主主義の前進を追求する立ち位置に対するリスペクト。

同労組の古さと純粋さと柔軟さ。その人間性に対する信頼。

著者は、岩波書店と同労組に対する限りない愛情をもって綴る。

保守性と進歩性。一見矛盾する色彩が、会社にも組合にもあるが、それが多様性という形で共有されているところに特質がある。

本書は、登場人物の会話を通して、この様々な側面を正直に表出する。会話の中で、対立した見解を述べ合うことによって、その多面性と統一が浮き彫りにされる。

見事な形態を考え出したものだ。

20年間同労組の顧問弁護士であった私としても共感するところ大である。

もちろん私はごく一部を垣間見ただけであるが、納得感がある。

登場人物の雑談の中に、「マルクスがフォイエルバッハを乗りこえたという常識の再検討」「レーニンと訣別」といった会話も登場してくるが、次著はこの辺を深堀してほしいと思う。

ちなみに、私についても触れられている。そこで紹介されている拙著『刑事司法改革 ヨーロッパと日本』(岩波ブックレット・共著)は、著者の編集により生まれたものであった。

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2021年12月22日 (水)

死刑制度がえん罪を作り出している

昨日、3人の死刑確定者が死刑執行された。この機会に、死刑制度とえん罪の関係について考えてみたい。

死刑となるかもしれない凶悪事件が発生し、犯人と思われる被疑者を取調べるとき、捜査官が必ずいう常套セリフがある。

「証拠はそろっている。それでも否認したら死刑になるぞ。素直に認めれば懲役で済む。よく考えろ。」

「証拠はそろっている」というのはブラフであるが、自らはえん罪であることを当然わかっていても、捜査官にそう言われれば、そういう証拠があるんだと思ってしまい、死刑にだけはなりたくない、死刑にさえならなければ何とかなるだろう、あとで裁判官にはわかってもらえるかもしれない、などと思って、取調官の言うなりに自白する。

とにかく死刑だけは何とか避けたい、と思って積極的にウソの自白をする。ああでもない、こうでもないと想像を巡らして、取調官の誘導に自らすがり付き、迎合して自白する。このようなケースが多い。袴田事件、布川事件、今市事件など、すべてその構造だ。

死刑には絶対になりたくないから、ウソの自白をする。死刑制度があるために、それを利用して自白が強要されているのだ。死刑制度自体がえん罪を特別に作り出している関係にある。

えん罪は死刑事件以外にもたくさんある、えん罪を理由に死刑廃止を主張するのはおかしい、という意見があるが、死刑制度とえん罪の特別の関係が見逃されている。

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