2024年1月 8日 (月)

『歌われなかった海賊へ』

1944年、ナチ体制下のドイツ、『究極の悪』に反抗した少年少女の物語」と銘打たれている。連合国軍が迫る中で、ドイツ市民がどのように考え、どのように行動したか。

昨年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』の受賞第1作(早川書房)。

前作は独ソ戦の戦場が舞台であったが、本書は連合軍占領直前のドイツの田舎が舞台だ。

本書も、前作同様、劇画チックではらはらと先を急いて読み進めたくなる。

主人公や周りの人々、市民たちの様々な変化する思いが複合的、重層的に描かれ、人間の多様性が矛盾なく、いや矛盾に満ちた多様性の総和が見事に描かれている。

そこには、誰が悪くて、誰が良い、と二分することができない人々の生きざまがある。誰もが善人であるが、思想的な立場の違いが狂わせる…。

権力に従う多数の市民たち。連合軍支配前も、支配後も。日本の戦前、戦後を連想させる。

著者の勢いに圧倒される意欲作だ。

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2023年12月22日 (金)

『天路の旅人』

沢木耕太郎著の大型ノンフィクション「第二次大戦末期、中国大陸の奥深くまで『密偵』として潜入した日本人がいた」(新潮社)という触れ込みに惹かれて購読したのは今年初めであった。

でも未だにこの本を時々思い出す。何を思い出すかというと、内蒙古から中国大陸の奥深く、チベットからブータン、ネパール、インドまでの長い旅の中での、地元の貧しい人々との交流である。明日の食べ物さえどうなるかわからないのに、同じ境遇の見知らぬ旅人に分け与える人間の心の持ち様であった。

スパイ小説かと思って購入したのに、その期待は見事に裏切られた。むしろ、長い長い旅日記であり、そこに大した筋書きがあるわけではない。淡々と山歩きする姿であったり、お寺の坊さんたちとのさりげない日常であったりの連続である。

しかし、570頁に及ぶ長編を飽きないで一気に読まがせるのは著者の並々ならぬ筆力であろう。人間とは何なのか、思わず考え込んでしまう。そして、大陸の奥深くの雰囲気に浸るのである。年末になっても、その余韻が未だに残っている。

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2022年8月22日 (月)

『同志少女よ、敵を撃て』

ロシアのウクライナ侵略は、戦後世代の私たちにとっては、戦争というものをリアルに身近に感じさせることとなった。

確かに、戦後間もない生まれの私にとって、祖父母、両親、親戚から戦争の話は聞かされていたし、実際に、伯父に当たる人が何人も亡くなっている。父親を亡くしたいとこが複数いる。また、幼いころ、足を無くした傷痍軍人が路上で物乞いしている姿もよく見かけた。今でも鮮明に覚えている。しかしこれらは、およそ戦争被害の体験であった。

ベトナム戦争は日本の基地から米軍が飛び立っていたが、日本にとっての切迫感はあまりなく、湾岸戦争、アフガン戦争も身近な戦争ではなかった。

ところが、今回のウクライナ戦争は、身近な戦争という感がある。戦後であったはずの今日、現在進行形で戦争が進められている現実を実感させる。あのソフィアローレンの映画『ひまわり』の舞台となった広大なお花畑があるウクライナで今まさに戦争が行われている。同時進行的に報じられるメディアの影響大である。

戦争とは何なのか。おびただしい血を流している人々を思うと、何とかならないのかと悔しさを覚える。

そこで、日本以上に多くの死者を出したソ連の防衛戦争に思いが至る。独ソ戦の実態はどうだったのか。

今年の本屋大賞を受賞した逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は、ソ連軍の女性狙撃兵(スナイパー)を主人公とした異色の戦争小説だ。五百頁近い長編であるが、一気に読ませる。ウクライナも舞台となっており、ウクライナ戦争の前に出版されているが、まるでウクライナ戦争を予感したように、現在のウクライナ戦争とオーバーラップされる。

スターリングラードとウクライナがこんなに近いとは知らなかった。郊外の戦争も市街戦も陣地戦であり、ひとつ一つ陣地を取っていくのが戦争なのだ。軍隊には様々な任務分担があり、歩兵と狙撃兵はまるで違う。等々、戦争の実態をリアルに壮大に展開する。ソ連兵もドイツ兵も軍人としてはその本性は同じ。が、祖国防衛という社会主義国を標榜する大義名分により異なるところもある。読み進むと、敵か味方か、その線引きも空しくなる。

権力が軍隊を組織し、戦争を進める。戦争を大局的にも、現地戦として具体的にも、トータルに実感させ、かつ戦争の理不尽さを思い知らされる傑作である。

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2022年2月27日 (日)

2022年球春

2022年プロ野球開幕が待ち遠しい。

昨年はオリックスバッファローズのリーグ優勝に小躍りしたが、今年は、日本シリーズも制覇したい。

昨年の日本シリーズは、ほとんど1点差試合であった。前回のブログに、オリックスが負けたのは仕方がないと書いたが、実は、状況次第ではそうでなかった。球界ナンバーワンのバッター吉田正尚の調子次第であったともいえる。

リーグ戦終わりの怪我とデッドボールで2度にわたって欠場したときは、リーグ優勝も無理かと思ったが、ナインが奮起して、何とかリーグ優勝した。吉田は日本シリーズには復帰して、1回戦のサヨナラ逆転打をはじめ、前半は大活躍した。

しかし、シリーズ後半は芳しくなかった。球界で最も三振しないバッターが、ボール球のスライダーにあっさり三振するシーンが続いた。信じられない場面であったが、後に、友人の医者が、あれは明らかに疲れからだと指摘した。病み上がりの体力不足が最後になって現れたのだ。

そういえば、何十年も前のことだが、日本シリーズで広島カープの山本浩二が大活躍しながら、後半、特に引き分けにより8試合目に突入した最終戦で全く不調でカープが敗退したことを思い出した。これは年齢によるものだろうが、昨年の吉田の場合は、病み上がりの体力不足だ。

今年はそういうことのないように、吉田には、怪我をせずにフルシーズン目いっぱい頑張ってほしい。

球春真近。

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2022年1月 9日 (日)

2021年プロ野球回顧

オリックスバッファローズのパリーグ優勝は、阪急ブレーブス時代からのファンである私にとって、最高のプレゼントだった。

コロナ禍、大谷翔平とオリックスの活躍に救われたともいえよう。

昨年の1年間、オリックスが負けた試合をテレビで見ても充実感があった。

次はこうすればいい、と監督になったつもりで、教訓を得ることがその日の収穫と思え、楽しめた。こんな気分になったのは初めてだ。

ヤクルトスワローズとの日本シリーズ対戦は、誰からも面白かったとの評判。

力が拮抗したチーム同士で、どちらが勝ってもおかしくない試合が続いたからだろう。

日本シリーズでオリックスが負けても、やはりそれなりに楽しかった。

2年連続最下位のオリックスがこれだけ注目され、見直され、かつ試合内容もヤクルトと対等にたたかい、充実していたからだ。その落差に微笑んだ。

でも、正直なところ、走攻守監督、すべての面で、少しずつ、ヤクルトが上だと思った。

オリックスが負けたのは仕方がないと思う。ラッキーがもう少しあれば勝つ可能性もあったと思うが。

監督の差について最終の試合でいえば、投手に代打を送らず、次に投げさせて打たれて降板というところは、やはり代打を出すべきだった、結果論だが。

ジョーンズが敬遠される状況が見えながら、そうさせてしまい、1打席も打たせられなかった。

これらは、DH制のパリーグ監督故の不慣れと思われるが、1点差ゲームに響いた。

そもそも、日本シリーズ開始前に、ヤクルト高津監督が先発投手の登板予告を拒否した時点で、オリックスは負けるかなと思った。

恥も外聞もなく拒否したところに、日本シリーズにかける高津監督の意気込みを感じたからだ。そして、「絶対大丈夫」と選手たちに言い続けた。

それに対してオリックス中島監督は、それでも先発投手の登板を概ね予告した。対抗上、予告は拒否すべきだったろう。ここにスマートさを気にして、勝負に対する執念の相対的な弱さを感じたといえば言い過ぎであろうか。

それでも中島監督を非難するつもりはない。

リーグ戦での中島監督の采配ぶりには感心した。

リーグ戦開始当初、ショートの紅林がミスを続けながらも使い続けた。

杉本がとんでもないボールを空振りして三振を繰り返しながらも使い続けた。

周りからそれなりには非難があったろう、と思う。

それでも使い続けた監督の見識と意地に頭が下がる。それでリーグ優勝したことは間違いないのだから。

今年はリーグ優勝にとどまらず、日本シリーズ制覇に意欲を燃やすであろう。

他球団も負けてはいまいが、今年がさらに楽しみだ。

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2022年1月 7日 (金)

『小説 岩波書店取材日記』

中野慶著(かもがわ出版)の本書は、小説の形をとってはいるが、岩波書店の職場が経営と労働組合の関係性を軸にして細部までリアルに描かれている。岩波の中にいた人間でなければ絶対に書けない書である。

知は力なり。岩波書店の伝統に対する愛着。特定のイデオロギーにとらわれず、政党政派に偏ることなく、しかし断固として平和と民主主義の前進を追求する立ち位置に対するリスペクト。

同労組の古さと純粋さと柔軟さ。その人間性に対する信頼。

著者は、岩波書店と同労組に対する限りない愛情をもって綴る。

保守性と進歩性。一見矛盾する色彩が、会社にも組合にもあるが、それが多様性という形で共有されているところに特質がある。

本書は、登場人物の会話を通して、この様々な側面を正直に表出する。会話の中で、対立した見解を述べ合うことによって、その多面性と統一が浮き彫りにされる。

見事な形態を考え出したものだ。

20年間同労組の顧問弁護士であった私としても共感するところ大である。

もちろん私はごく一部を垣間見ただけであるが、納得感がある。

登場人物の雑談の中に、「マルクスがフォイエルバッハを乗りこえたという常識の再検討」「レーニンと訣別」といった会話も登場してくるが、次著はこの辺を深堀してほしいと思う。

ちなみに、私についても触れられている。そこで紹介されている拙著『刑事司法改革 ヨーロッパと日本』(岩波ブックレット・共著)は、著者の編集により生まれたものであった。

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2021年12月22日 (水)

死刑制度がえん罪を作り出している

昨日、3人の死刑確定者が死刑執行された。この機会に、死刑制度とえん罪の関係について考えてみたい。

死刑となるかもしれない凶悪事件が発生し、犯人と思われる被疑者を取調べるとき、捜査官が必ずいう常套セリフがある。

「証拠はそろっている。それでも否認したら死刑になるぞ。素直に認めれば懲役で済む。よく考えろ。」

「証拠はそろっている」というのはブラフであるが、自らはえん罪であることを当然わかっていても、捜査官にそう言われれば、そういう証拠があるんだと思ってしまい、死刑にだけはなりたくない、死刑にさえならなければ何とかなるだろう、あとで裁判官にはわかってもらえるかもしれない、などと思って、取調官の言うなりに自白する。

とにかく死刑だけは何とか避けたい、と思って積極的にウソの自白をする。ああでもない、こうでもないと想像を巡らして、取調官の誘導に自らすがり付き、迎合して自白する。このようなケースが多い。袴田事件、布川事件、今市事件など、すべてその構造だ。

死刑には絶対になりたくないから、ウソの自白をする。死刑制度があるために、それを利用して自白が強要されているのだ。死刑制度自体がえん罪を特別に作り出している関係にある。

えん罪は死刑事件以外にもたくさんある、えん罪を理由に死刑廃止を主張するのはおかしい、という意見があるが、死刑制度とえん罪の特別の関係が見逃されている。

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2021年9月10日 (金)

戦争遂行者の無責任体制

 

保阪正康『陰謀の日本近現代史』(朝日新書2021年)を読んだ。そのカバーには、「戦争と大事件の『闇』を照らす」として、「『歴史を変えた』のは誰なのか 私はいま光を当てたい」との著者の言葉が記されている。

支配体制の組織性、責任体制がいかに脆弱であったか、日米開戦から、いやそれ以前から、敗戦に至るまで、日本の支配層は一貫してそうであったし、それを支える忖度と自己本位の世界であったようだ。

そんな権力体制の下で、戦争の前面に立たされ、殺し、殺されていった人々の無念、大空襲、原爆の悲惨さを思うと、どうしようもない情けなさと無力感に囚われてしまう。

いまの日本のコロナ対策を連想する人は少なからずいるだろう。

「自宅療養」と称して自宅放置される無念さはいかばかりであろう。

このような日本を変えるには、一人一人独立した合理的な人間に育てる教育しかない。

目の前の一つ一つに真摯に向き合い、その輪を拡げていくしかない。

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2020年12月15日 (火)

国家機関と独立性

首相が、学術会議推薦候補者6名の任命を拒否した。任命権が首相にあるから拒否できるという。その根底に、国家の機関は国の税金で賄われるから国民の負託を受けた内閣がその運用に責任をもつべきであるという考え方がある。

この論を進めれば、国立大学の先生は国税から給料が出ているから、内閣が人事などに介入する責任があるということになる。これでは大学の自治などないに等しい。

要するに、国がお金を出すところには独立性がないのか、という問題である。

金は出しても口は出さない、というのが学問の自由であり、近代民主主義の進化の歴史であったはずだ。

国連が推進する国内人権機関(国家人権委員会)は、国際人権を各国内に実現するために、各国に国の機関として作られる人権委員会である。公的機関であるが政府からの独立性がなければならない(パリ原則)ものとして、1993年国連総会で決議され、現在123ヵ国で設置されている。2002年には韓国国家人権委員会が設置され、ときの政府に対しても遠慮なくその立法や施策を批判している。しかしその費用はすべて国が負担しているのだ。

各種第三者機関の設置が時代の要請とされているが、金は出すけれど口は出さないというのが第三者機関の要諦である。国家人権委員会はその最たる第三者機関である。

私が編著に関わった、近刊『国際水準の人権保障システムを日本に 個人通報制度と国内人権機関の実現を目指して』(日弁連第62回人権大会シンポ第2分科会実行委員会編・明石書店)は、国家人権委員会について、最新の情報を含め、これ1冊を読めば全体像がよくわかる構成になっている。監視社会に対抗する国内人権機関の役割や、日弁連人権大会シンポで私が司会を務めたパネルディスカッションの模様など満載している。

国連条約機関が日本政府に対して、政府から独立した国家人権委員会を設置するようにと度々勧告しているが、これに対して日本政府は、前向きに取組むことを表明している。

ぜひ多くの人にこの本を読んでいただき、日本で早期に国家人権委員会設置を実現したい。

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2020年10月19日 (月)

「自立・自助の原則」

菅首相就任での「自助、共助、公助」というあいさつが注目されている。

そこで思い出すのは、1995年阪神淡路大震災のときの村山首相が「自立・自助の原則」を強調し、個人への国家補償を否定したこと。天災には国は責任を負わないという姿勢だった。

当時、私はテレビのワイドショーで、「資本主義国の最たる国アメリカでもロス地震では最高200万円援助されている。村山首相がいう『自立・自助の原則』はおかしい」と批判した。

1997年ドイツの大洪水では政府が最高200万円支給」「そもそも自然災害から守るために治水し、被災者には食糧補給することは、資本主義社会以前から、昔から、その国の為政者が当然の治政としてやってきたこと…政治は国民を助けることにあるということが、欧米デモクラシー国家で自明の原理である」(拙著『ワイドショーに弁護士が出演する理由』平凡社新書2001年)。

あれから四半世紀、東日本大震災を経て、九州の大洪水など、いまは新型コロナで国もわずかではあるが10万円の個人補償をした。個人への国家補償に誰も文句を言わなくなった。隔世の感がする。

だが、休業補償ははっきりしない。アメリカやドイツの新型コロナ対応と比べてあまりにもレベルが低い。

ときの総理大臣は、「自立・自助の原則」を強調しなくはなったが、「自助、共助、公助」と相変わらず、「自助」を前面に出している。

徐々に進んではいるが、欧米諸国とのデモクラシーの差を感じないわけにはいかない。

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